東日本大震災から、そして「今」Part-3

8年前のあの金曜日は、都内のビルで仕事をしていました。

13階建てのビルの中ほどのフロアで、自分の足元も外のビルも滅茶苦茶な揺れ方をしていて、このまま周りのビルと一緒に倒れて自分はここで死ぬのだろうと覚悟しました。

ビルと気持ちの揺れが落ち着き、むしろビルが倒れなかったことに感心する気持ちのほうが大きくなり始めた頃、同僚のワンセグの小さな画面の情報から、この日一番の、というよりそれまでの人生で最大かもしれない衝撃を受けました。東北でとんでもないことが起きている。

電車が動かなくなってしまったのと、月曜の会議資料が仕上がっていなかったこともあり、その日は会社に泊まりました。

土曜日。朝になって会社を出て、たびたび停まる電車と、振替輸送で初めて乗るバスを乗り継ぎ、5時間以上かけて横浜の自宅についたのは昼過ぎ。CMが消えたテレビから何度も聞こえる「被災地は壊滅状態」という言葉に動揺を感じつつ、徹夜の疲れで眠りにつき、目が覚めた時に原発事故のニュースを知りました。世界はどうなってしまうのか。

日曜は呆然とテレビを見続け、明くる月曜日。

相変わらず交通機関は麻痺しており、遅刻して会社にたどり着くと、予定されていた会議が中止になったことを知らされました。徹夜で仕上げた資料が無駄になったな、という脱力感。それと同時にふと、東北に行こう、という気持ちが湧き上がってきました。

その後、再び仕事に追われる日々に戻たものの、このとき湧いた感情は消えずに残りました。

 

ゴールデンウィーク。仕事は休みを取れたものの、所属していたオーケストラで任されていたホームページのリニューアル作業が締め切り間近。意を決して作業に取り掛かったものの思いのほか手こずり、完成したのは連休も残り3日となった日の昼でした。何の準備も出来ておらず、今から行っても1日2日しか現地に居られない。それで何ができるのか。

どうしようか10分ほど悩んだあと、以前に切り抜いた新聞記事を手に取って、記事に紹介されていた岩手のボランティア受け入れ団体に電話を掛けました。どうやら受け入れてもらえるらしいことを確認し、その電話で必要な備えを聞き、横浜の東急ハンズに駆け込んで寝袋などを買い揃え、そのまま東海道線で東京に向かい、東北新幹線に乗り込み、新花巻から釜石線に乗って遠野に到着。小さなリュックと東急ハンズの買い物袋だけを手に、勢いにまかせて岩手にやってきました。

内陸で被害が少なかった遠野はとてものどかな春の陽気で、東京ではゆっくり見ないまま散ってしまった桜が見られてラッキーだなと感じたのと、道ですれ違う中学生が「こんにちは」と声をかけてくれることに驚いたのが第一印象でした。

ボランティアセンターに到着して受付を済ませ、寝床となる体育館に入ると、大勢の人がシートや寝袋を広げていました。片隅に荷物を置くと、近くで飲んでいた男性たちが声をかけてくれました。ビールを飲みながらお互いの想いを語り合い、22時を迎えて消灯。適度に酔っていたものの、生まれて初めての寝袋と、体育館の冷たい床と、あらゆる方向から聞こえてくる歯ぎしりといびきに苦しめられ、なかなか寝付けず。頭上のバスケットゴールは、まだ時折り生じる余震で大きな音を出して揺れ、これまたあらゆる方向から鳴り響く緊急地震速報の携帯コールと共に眠りを妨げました。

ほとんど眠れぬまま朝を迎え、朝礼後に大槌町行きのバスに乗り込みました。目的地到着まで1時間強。のどかな川沿いをうとうとしながら進んでいると、川岸に転がる異物に気が付きました。なんだろう。目を凝らしている十秒ほどのうちにのどかな光景は一変。辺り一帯瓦礫だらけになり、眠気が一気に覚めました。初めて被災地に足を踏み入れた瞬間でした。

この日は小鎚川沿いの民家の泥出し作業を行いました。指示を受けて作業するものの、何をしたらよいか分からない場面も多々あり、役に立っているのか足を引っ張っているのか、よく分からないまま帰りの時間となりました。

作業していたのは3~4時間ほど。本当にこれで帰ってよいのか。この家の人達はこれからどうするのか。隣の手つかずの家にいた老夫婦は誰かが助けてくれるのか。疑問を口にしてよいのかも分からず、もやもやした気持ちのまま遠野に戻りました。

とはいえ体は疲れており、昨日とは違う人たちと語りながら飲んだ酒が回り、その人たちに借りた段ボールが床の冷たさをやわらげてくれ、前日寝ていないせいもあってか、相変わらず歯ぎしりといびきに囲まれつつも熟睡できました。

翌朝。前日とは違うチームになり、陸前高田行きのバスに乗り込みました。1時間強かけて現地に到着。大槌で見た以上の光景が広がっていました。瓦礫だらけで目印になるものが何もなく、あのとき通った場所がどこだったのかは未だに分かりません。

この日は午前中のみ作業をし、強風のため瓦礫が飛んで危険との判断から午後の作業は中止となりました。初めてのボランティア活動は、こうして終わりとなりました。

2日間の感想をひとことで言うと、「分からない」。自分が何かの役に立ったのか。すべきことは何だったのか。これが誰かのためになったのか。あるいは自分のためになったのか。

ともかくさっぱり「分からない」と言うのが率直な感想でした。だからこそ、これで終わりにするわけには行かない。必ずもう一度来よう。そう思って東北を後にしました。

以降、月に1回ほど岩手を訪れてボランティア活動をするようになります。夜行バスがあると知ったので、仕事後に夜行バスで遠野に向かって朝から活動。最終日は活動後に夜行バスで東京に帰り、駅のトイレで着替えて出勤。そんな強行スケジュールも度々ありました。瓦礫撤去に始まり、避難所でのケア活動。避難所がなくなってからは仮設住宅でのサロンへと活動内容を変えながらも、 やはり「分からない」という想いを繰り返し抱きつつ、何かを感じようとしていました。

共生地域創造財団に出会ったのは、11月のことでした。たまたま一緒に飲んだ人から誘われて、毛布配りの活動を手伝うことになりました。配る先は「在宅被災者」と呼ばれる方たちのお宅。

震災から半年以上経って初めて支援物資を受け取ったという方がいました。津波から逃げたときのことを2時間以上に渡って話す方がいました。横浜から来たと伝えると涙を流し、逆にたくさんのみかんをくれた方がいました。

感謝はされたものの、毛布を渡すだけでよいのか分からない。自分が話を聞くことで何の為になるのか分からない。支援しに来たのにみかんをもらってしまってよいのか分からない。しかし確実にその方と自分の間に何かが生まれたと感じ、それが意味のあることのように思えました。

それ以来、財団でのボランティア活動を重ね、東京での仕事を辞めて財団に勤め始め、大船渡に移住しました。大船渡事業の統括を任され、大槌事業の立ち上げを担い、今は事務局長という立場になりました。

しかし誤解を恐れずに言えば、あの頃からそれほど自分は変わっていない気がします。つまりは「分からない」。ろくな準備もせず新幹線に乗り込んだ時と同じく、何を目指せばよいのか明確な答えは出せていません。

ただ、初めて毛布を配ったときのような出会いを、この間の活動の中で重ねてきました。時間が解決するような問題だけでなく、震災以前からの問題も含め、様々な悩みや状況を知ってしまい、もはや見て見ぬふり出来ない方々がいます。

今となっては、分からないから何もしない、という選択肢はありません。分からないなら誰かに聞いてみる。それでも分からなければ一緒に考える。仮にでも答えを出してそれに向けて動いてみる。間違えたと思ったらまた考える。

そして自分と同じように、震災後に何も分からなかったとしても行動を起こし、財団に集まってきたメンバーたちとの出会いもあります。きっと、決められたゴールや方法がないからこそ目指せるものがあり、試せる可能性がある。そう感じます。

被災地での生活に慣れ始めた頃、震災特番にも関心を持てなくなっていた自分にとって、3月11日を特別な日と思う感覚は薄れつつありました。例年、県外での活動報告会などに参加するため現地を離れていたこともあり、この日は外にいる人たちが被災地を思い出す日であって現地にとっては日常。そんな風にも思っていました。

3年前、初めて職場メンバー全員が揃う形でこの日を迎え、14時46分、サイレンに合わせて黙祷しました。形式的に目を閉じたものの、隣の家の犬がサイレンの音に反応して遠吠えするのが気になり、吹き出しそうになるのをこらえながら目を開けました。女性職員全員が涙を流していました。

よく喧嘩していた女性の地元職員が言いました。外から来た石井さんには私たちの気持ちは分からない。たしかにその通りだと感じました。

しかし逆にこの日のことがあって、外から来ている自分が地元メンバーと一緒にこのチームをつくることの意味を、強く感じるようになりました。

たしかに外から来た自分には分からないことがある。しかし同じように震災を経験した人同士でも分からないことはある。そして自分のことも他の誰かが分かってくれるとは思わない。そもそも、この活動で何を目指すのが正しいのか、答えは誰も分からない。

分からないからこそ関わり続ける。分からないからこそ話し合う。分からないからこそ一緒に動く。そのこと自体が創造的なことであると、今は考えています。

まだまだ何も分からない。だからこそまだまだ関わり続けます。

【石井 優太】

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