多機関連携で伴走型支援を行う

宮城県石巻市は大規模都市ゆえに行政の支援が届かない集落もありました。
今も小さなものへ偏った支援を行う財団の理念を体現する活動を行い続けています。


石巻事業所開所の背景と経緯※現在は仙台市の本部へ集約されております。

 東日本大震災直後は、宮城県仙台市で、ホームレスの支援団体をしているNPO法人ワンファミリー仙台に拠点をおいていました。いつまでも間借りをしているわけにもいかないので、2012年4月に農業支援や手仕事支援で入っていた亘理町に拠点を移転。仮設住宅に住む女性たちの手仕事プロジェクト「WATALIS」と共同利用をしていました。

 しかし、当時、共生地域創造財団は、甚大な被害を受けた石巻市への支援に入っており、事務所と現地の往復に時間が取られていました。

 「その時間がもったいない。その時間を有効に使いたい。財団として被災地である沿岸部、石巻市にちゃんと事務所を構えようということになったのです」

 また、石巻市は被災地の中でいちばん大きな都市で、人口15万人を抱えていました。行政だけでは、支援が届かない方々がいることも理由でした。そして、2016年6月に石巻市へ移り、2017年10月に現在の場所に拠点を据え、本部機能も集約しました。

 その後、共生地域創造財団の自主事業として、総合相談と就労支援を開始し、地域のNPO法人等と連携。被災者支援のほか、震災に起因する地域課題、困窮世帯へ対し就労訓練や食糧支援、家計相談などでの伴走型支援を行いました。

 「石巻での支援は、被災者が事務所にくるのではなく、スタッフが被災者のもとに出向いていました。個別に相談に応じ、ともに考え寄り添う伴走型支援を行っていました」

 半年後には「第1回ともいきシンポジウム 石巻生活困窮者自立支援シンポジウム」を開催。基調講演に厚生労働省社会・援護局生活困窮者自立支援室より本後室長を招き、生活困窮者自立支援制度の現状と課題について話をいただきました。パネルディスカッションでは石巻の現状を踏まえ、困窮者支援のあり方を考えました。

 岩手県大船渡市で行ってきた在宅被災世帯の支援ノウハウと実績を評価され、2017年4月「石巻市被災者自立生活支援業務」を受託しました。その事業から見えてきた被災者の生活課題解決を目的とし、仮設住宅からの転居を支援する「伴走型被災者支援事業」も受託。

 「石巻市でも、知らない地域へ転居し、不安や孤独・孤立に苛まれている被災者がいらっしゃいました。財団の理念である「復興ではなく新たな共生社会の創造を目指す」のために、地域に根差した活動を進めました」

仮設住宅からの転居支援

 また、構成団体であるNPO法人ホームレス支援全国ネットワークと協力して2016 年より「伴走型支援士講座」の開催をしています。以前は困窮状態というと、経済的困窮として理解され、その原因の大半は就労に関することでした。そのため就労自立支援が重視されてきましたが、現在は人間関係、精神面の課題など、さまざまな要素を含んでいます。それらの課題を包括的に俯瞰し、必要な支援をコーディネートしていく総合的な仕組みが求められるようになりました。支援は生活支援、家計支援、居住支援と多岐にわたります。2015年4月に生活困窮者自立支援法が施行されました。伴走型支援士講座では、生活困窮者の自立支援のスキルを身に付けるため、その人の持つ課題を包括的に俯瞰し、生活や家計、居住など多岐にわたる支援について学びます。石巻市や陸前高田市において講座を開催しています。

 

仮設からの伴走型転居支援と『笑える牡蠣』の就労支援

 2013年から始まった「笑える牡蠣」は、石巻本部と石巻事業所の復興支援と就労支援の象徴的存在となりました。

 震災後の2011年3月末、支援物資を積んで牡鹿半島に向かいました。大きな都市はもちろん大変でしたが、小さな集落には支援が届きにくい状況でした。瓦礫をかきわけ集落の集会所で出迎えてくれたのが亀山夫妻でした。津波で家が崩壊し、剥むき場も漁船も失い、桟橋は地盤沈下していました。何度目かの支援に亀山さんご夫妻を訪ねたとき、支援物資に入っていた、「生きていれば笑える時がくる」と書かれた絵手紙を見せて、「私たちは、今回の津波ですべてを失いました。でも、今日はこれで生かされているんです」とおっしゃいました。この絵手紙の意味を考えることが私たちにとっての震災支援となりました。

 一緒に瓦礫処理の手伝いなどを継続的に行いました。震災直後の支援が一段落すると、亀山さんから「このまま、いただき続けるのはつらい」と支援のお断りがありました。私たちの支援が心の負担になっていたのです。私たちは「相互多重型支援」を提案しました。

 これは、財団が牡蠣の養殖に使う部材を提供し、漁師たちは支援を受けて牡蠣を育てます。自活に向け働き、牡蠣をつくることができれば販売することができます。この仕事には、現地の人たちのほか、生活困窮状態にある青年たちが加わりました。漁師たちは自立を目指すと共に、被災地を支える仕事をし、通年で就労訓練研修生を支援します。自分のことだけでなく、誰かのために動く、「助けたり、助けられたり」のお互いさまの関係です。

 漁師たちの賛同を得て、「笑える牡蠣」のプロジェクトが始まりました。2015年5月に殻付き牡蠣「笑える牡蠣」を出荷し、他地域より早く復興にこぎつけました。この取り組みは、現在も続けられています。

亀山さんとお孫さん

牡蠣の磨き作業

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多機関連携による総合的相談窓口で伴走支援を展開する意味

 2019年10月から「石巻市相談支援包括化推進事業」の業務委託を受けています。これは、子ども、高齢者、障害者などの全世代を対象に、複合化・複雑化した課題を包括的に受け止める総合的な相談支援体制を構築するために始まりました。

 この背景には、少子高齢化や各家族の進行、東日本大震災によるコミュニティの再編、地域のつながりの希薄さなどが複合化・複雑化してきていることがありました。

 「この委託に先立ち、2017年から石巻市から被災者自立生活支援業務と伴走型被災者支援業務を受託していました。その実績もあり、石巻市から話がありました」

 熊谷は大船渡事務所でも被災者支援に携わってきた経験や、台風19号のときには岩泉町で生協やフードバンク岩手などと連携して多機関連携による生活相談を行うなどの経験がありました。現在は、業務委託で石巻市健康部包括ケア推進室に在籍し、相談支援包括化推進員として活動しています。

 共生地域創造財団では、伴走型支援を行っています。熊谷には、石巻市相談支援包括化推進事業の職員派遣は、行政に伴走型支援を知ってもらいたいという思いがありました。

 「そもそも支援は官民協同で行わないと容易ではないのです。『自助』『共助』といいますが、そもそも自助ではどうにもならないから、困窮者が出てくるのです。その時に行政の伴走がないと、『互助』というのはできない。そのためには『公助』である行政の人たちに伴走型支援を知ってもらいたいのです」

 石巻事業所は、他団体との支援体制を構築し、専門機関と協力して課題を解決する伴走型支援を行っていました。地域共生社会において、伴走型支援は、継続的に寄り添い、問題をひとつずつ解きほぐしていくもの。訪れた相談者の属性や課題を関わらず、幅広く相談を受け止め、相談者本人や家族とのつながりや信頼関係を築き、相談支援していきます。

 「相談者に伴走する人が多いほど、解決できる問題は多いのです」「専門窓口で相談しても、専門的なところしか解決できなかったことが、総合相談窓口で解決しやすくなる。生活の見通しだったり、安心だったりを得られるように願いながらやっています」

 大船渡市や大槌町と異なり、石巻市は人口が14万人もおり、まちの規模が大きいために見落とされる人はたくさんいました。本来、福祉は一体化しているのですが、石巻市は規模が大きいことから同じ福祉業務でも高齢者(介護関係)と福祉事務所と生活保護関係ではそれぞれの考え方が分かれていました。

 「2年の委託期間で、石巻市がそれまでできなかったことを、共生地域創造財団のネットワークを生かすことができました」

 例として、石巻事業所が居住支援法人を取得しシェルターを持っていたので、生活保護を受けられない人をそこで保護をすることができました。またフードバンク石巻に食糧支援をつなぎ一緒に支援を行ったり、不動産業者と連携住まい支援も行ったりしました。

 「本来は、行政がお金を払ってやらなければならないことなのです。いま、私は委託業務としてですが、請われて行政に入って活動しているので、石巻市にそのような話もしています。一石を投ずることができたかなと思っています」

相談支援

 「伴走型支援が目指しているものを伝えたい」

 「寄り添うのが伴走と捉えられますが、つながるのが伴走で、つながる人が多いほど、助かる人が多いのです。そういう地域をつくるにはいろんな人や期間とつながれる行政であってほしいと思います。行政や制度が絡み合ってひとりの生活が成り立っています。関係各部署が分野を超えて多機関で連携しながら取り組まなければ、課題が解決できないのです。施策とか支援体制に盛り込んでいけるようなまちになってくれればという強い思いがあります。これを最後まで伝えていきたいです」

 

ホームレス・ハウスレスの方々との出会い

 仮設住宅から転居できないという人が石巻市にも出てきてきました。被災者伴走型支援の居住支援委託の中で、仮設住宅から転居しても家賃を払えずに住まいを出されたりする人がでてきました。その在宅支援の被災者の中でもホームレスやハウスレスの問題が出てきました。

 東日本大震災後、石巻市では就労に困難を抱える方が増えました。復興工事などの事業終了で県外から来た方が仕事や住む家がなくなり、そのままホームレスになるケースが多くなりました。また居場所がなく、パチンコ店の休憩所やスーパーのロビーで1日過ごしている方も見かけるようになりました。私たちは、数班のチームをつくり見回りをし、声をかけてお話を聞き、食料支援や就労を促す支援を行いました。

 「ホームレス」と「ハウスレス」という言葉があります。このふたつは、異なります。「ハウス(住まい)」は家がないなど物質的な問題ですが、「ホーム(暮らし)」は家族や人間関係など社会的な関係性の問題です。

 「居場所や家族を始めとする人とのつながりのない方もホームレスになります。支援した方の中には、家族と一緒に住みながらも、家の中で孤立しされているケースもありました」

 支援の中で最後まで関わった中で、ふたつのケースが印象に残っています。

 「45年間、車中生活を行っていた男性がおりました」

 2018年11月、車上生活をしていたTさん(当時86歳)と出会いました。私たちが声をかけたとき、「いのちの次に大切なのが車だ」とおっしゃっていました。何度か話を聞いているうちに「車での生活をやめて、安い部屋に住むことを考えたい」と相談されました。狭い車中での生活は体が痛くなったり、一人なので病気になったりすると大変です。2019年1月に大切にしていた車を手放し、市営住宅に入居しました。その後もスタッフがTさんをたずね、家族のような関係を築くまでになりました。 Tさんは2021年9月に亡くなりましたが、その亡くなる2週間前に訪問した際、「また来ますね。」と声を掛けたあと、嬉しそうな表情で大きく何度もうなずいていたTさんがおりました。居住支援に止まらない社会的支援を継続できた意義は大きかったと思います。

道で捨ててあるもので作った杖

手作りの杖で毎日近所のごみ拾いを実施

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つのケースは、在宅で被災をされたRさん家族。私たちが出会ったとき、Rさんとご両親の間では交流のない状況で、お互いに困っていました。Rさんは家族の中で孤立し、家にいることが精神的な負担となっていました。経済的に困窮していたため、独立することもままなりませんでした。ご両親のほうもそのRさんを支えることに疲れていました。私たちはRさんとご家族、それぞれの相談に応じるなか、解決への緒として「一度離れて、お互いが行き来できる距離で住む」ことを提案しました。少し離れたことで、お互いに精神的な余裕ができ、家族の関係性が改善していきました。

 「Rさんは日中活動の場として、安心して過ごせる場所としてグループワークに出てくるようになり、『笑える牡蠣』の作業にも参加しました」

Rさんは2020年に他界され、父親も亡くなられ、母親が一人残されました。私たちは母親へのケアを継続して支援を行っています。

 「『ちょっと相談したいけれどできない』が災害時にはよくあります」

 「相談できる人がいるというのは大きいです。新型コロナ感染拡大の影響で、震災後と同じように居住支援や困窮支援に対する重要性が増してきています。これからも、私たちがその相談役になれる存在であることを多くの人に知ってもらいたいと思うのです」

第3回ほやほや

 共生地域創造財団では、生活に困窮する方の自立を支援してきました。その過程で就労訓練のほか、ひとりひとりの悩みに寄り添うパーソナルサポートも行っています。東日本大震災のほか、最近は新型コロナ感染拡大の影響によるケースが増えてきました。解決は自立のみならず人生に寄り添う伴走型支援が必要です。今後もトータル的に課題を俯瞰し、継続的に支援していきます。