誰も取り残さない災害支援④=やろうとしたことは災害ケースマネジメントだった=

☆在宅被災者の全戸調査が始まるまで☆

 2011年震災当初、チーム王冠の拠点は大河原にありました。10月に任意団体として活動するよりも社会的に信用が得られること、助成金など申請しやすくなること(残念ながら当時は在宅被災者の認知度が無かったため助成金の審査は通らないことが多かった。)様々な面で活動に役に立つことから、『一般社団法人チーム王冠』を設立させます。そして翌月の11月、伊藤さんは2足の草鞋だった飲食店の大河原にある拠点を閉じ、石巻での在宅被災者の生活再建支援を中心とした災害支援に主軸を置きます。在宅被災者と出会い、災害支援の仕組みとしてこの方々に支援が届かないことがわかってきた伊藤さんの決断でした。11月の当時は、まだ石巻には被災し柱だけが残るガソリンスタンドの事務所跡に、コンパネを壁代わりにした拠点があるだけでした。程なくして、6畳ほどのコンテナハウスを譲り受けることができて、毎日5~6人がぎゅうぎゅうになりながら打ち合わせを行う日々を送っていきます。

現在のコンテナハウスの様子

 石巻市では、発災当時からボランティア団体や個人のボランティアの受け入れを専修大学で行っていました。石巻災害復興協議会(現在は一般社団法人みらいサポート石巻と団体名称を変更している。)が発足し、避難所支援の連絡会、8月~9月頃からは仮設住宅支援連絡会がほぼ毎日行われ、市内で活動する約340団体が参加していました。そして、在宅被災者支援の連絡会が初めて開催されたのは12月でした。在宅被災者の存在が認知されない状態は、民間団体の支援が届かないことに繋がっていることを表しているかのようです。在宅被災者の連絡会の参加団体は、地域密着型の団体を含め10団体弱でした。この10団体だけが、広範囲に及ぶ大規模な被災地で、在宅被災者に支援を届けていることになります。伊藤さんには、在宅被災者に必要な支援が届いていないことが容易に想像できました。

 また、石巻の連絡会より先に仙台では、在宅被災者連絡会議を2回ほど開催し、伊藤さんからも在宅被災者の状況の話をする時間が設けられることがあり、それぞれの持っている情報交換をしていました。この協議会には、仙台で在宅被災者支援を始めていた一般社団法人パーソナルサポートセンターや認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい、仙台から大船渡までの沿岸で在宅被災者への支援を行っていっていたわたしたちの団体も参加していました。

 このような譲歩交換をしながら、伊藤さんは在宅被災者に支援が届くために必要なことは何かを考え続けていきます。

 

☆在宅被災者の全戸調査を始める☆

 

 ・・・在宅被災者に助けが来ないのであれば、助けを呼ぼう・・・

被災した家屋の様子

 伊藤さんは、在宅被災者が一体何に困っているのか、その課題を全体として把握して話を進めないと何も進まないと考えました。そのためにも全戸調査をする必要があるため、在宅被災者へのアウトリーチ型全戸調査の企画書を作り、石巻で活動する医療系の団体を中心に賛同者を呼び掛けました。声をかけた団体の中に東京大学の災害支援団体があります。この団体は、伊藤さんの調査の話を聞き、計画書に沿って事業の経費を試算してくれたそうです。その団体から伝えられた事業費の資産は20,000,000円。「この費用をどうしましょうか。」という問いが伊藤さんに投げかけられました。事業費を賄える見通しをもって活動を進めることが、事業として活動を考えた場合、当然のこととして理解はできる。同時に、伊藤さんが分かっていたことは、公的な支援も民間団体からの支援もほとんど届かない仕組みの中で、目の前にいる被災した自宅で避難生活を続けている何人もの方々がいて、「助けて」の声がどこにも届かない現状があるということでした。伊藤さんには、在宅被災者の1人1人を事業が成立しないことを理由に、支援ができませんとあきらめることは、人としてできないということだったと思います。この思いの方をより大切に感じること、人として持っていて当然で、人として誠実で、誠意があり、然るべきあり方なのでしょう。

 お金がかかる、お金がない、時間がない、意味が分からないなど様々な理由で、協働をことごとく断られる日々が続きました。ターニングポイントは、祐ホームクリニックの武藤先生との出会いでした。武藤先生からは「すぐにやりましょう。僕たちにはお金もないし、人脈もないし、知識もないし、ノウハウもないけど、やることだけ決めましょう。やっていくうちに何とかなるでしょう。」という言葉をもらいやることを決めました。データベースについては、武藤先生からのつながりで富士通株式会社よりプロボノでの協力を得ることができました。

 データベース作成の担当者へ、伊藤さんはこの調査には2つの目的があることを伝えていきました。1つは、困りごとを系統別に件数でまとめることによって、在宅被災者の存在を明らかにして、行政や国からの支援が在宅被災者へ届けられるように仕組みを変えることを目指すこと。これが、在宅被災者への支援のスタートになるはずですということ。もう1つは、国や行政が動くまでに在宅被災者へ支援がなにも届かないことは、伊藤さんには耐えられないので、解決できない問題は致し方ないとして、解決できる問題があればすぐにでも動いて支援を実施することです。このようなやり取りをしていき、「伊藤さんがやろうとしているのは、アセスメントのデータベースですね。」と担当者の方から言われて、初めて伊藤さんは“アセスメント”という専門用語を知るのでした。

 

 後日、武藤先生が伊藤さんに話してくれたことがあったそうです。「伊藤さんの話を聞いてすぐに、やろうとしてよかった。伊藤さんがいなければ僕がやりたかったことはできなかった」。震災直後、祐ホームでは訪問看護の事業を実施していることもあり、在宅で避難をしている方々の健康状態が悪化していることを懸念していました。武藤先生は職員と共にボランティアで被災地を訪れ、在宅被災者の方々の支援ができるかと思っていましたが、行政から依頼される内容は避難所での健康確認のみで、在宅避難の方々の話は全く聞くことがなかったという経験をしていました。武藤先生はその時、想定が違っていたのかと考えていましたが、伊藤さんに出会い調査を進める中で、在宅被災者が行政からの支援から漏れていることを初めて知ったのだそうです。

 

☆訪問調査をする中で起きたこと☆

ミーティングの様子

 在宅被災者の訪問調査はいくつかの団体が集まり、「石巻医療圏健康・生活復興協議会」として動き始めました。2つの目的を達成するために、全体を3つのチームに分けました。調査チーム、入力チーム、支援チームです。訪問調査を始めるにあたっての打ち合わせで、伊藤さんは調査員にある程度の要件を求めていました。その内容は、調査チームは2人1組として、祐ホームからの医療関係に詳しいボランティアに極力になってもらうこと、ある程度の社会経験のある30代以上の人で生活に必要なものが何かを感覚的にわかる人、今の状況をお財布の中も含めて話を聞きいていくためにも地元ではない人が望ましいというものでした。一方で、伊藤さんのやり方では人手も時間もかかるとして、学生にアルバイト料を払って1人でもいいから行ってもらう方が、機動力もありスピーディに対応でき人員も時間も少なくて効率が良いという意見が対立します。そこで2つの方式での実施を進めていきましたが、結果は訪問調査開始2週間もすると明らかとなります。調査票の枚数では、学生方式の方が3倍以上の調査票が積みあがっていて、圧倒的な差がありました。しかし、学生の調査の中身は名前と住所が記載してあるだけのものや、肝心の生活状態について調査員が気になったことも含め、細やかに書いているようなものはほとんどなく、再訪問・再調査が必要なものばかりでした。一方で伊藤さん方式の調査票は余白も含め書き込みがされていて、丁寧に聞き取りの内容が書いてある調査票でした。また、地元の方を有償ボランティアで10名採用しましたが、残ったのは1名でした。辞めてしまう要因は、相手の話を聞いてフラッシュバクが起きてしまい耐えられないというものでした。この結果をうけて、これ以降迷うことなく伊藤さん方式で調査が進んでいきます。

 偶然にも2つにわかれたものが他にもありました。調査員となるボランティアの動き方です。この調査はボランティアがいてこそ成り立つものだったため、伊藤さんは今でもその協力には感謝しています。当時は丁寧な聞き取り調査をしながら、可能な限り調査期間を3カ月以内で終わらせようとしていたこともあり、真剣に取り組んでいました。ボランティアの調査員の1日は朝10時に始まります。チーム王冠の事務所で打ち合わせ、各自お昼などの休憩を取り、16時にチーム王冠の事務所に戻ってくる。その後報告連絡をして翌日の訪問先を確認し、食事をとりその日が終わるというものでした(伊藤さんはこの後、その日の調査票を全部点検して、入力班が入力できるように精査していたそうです。)。程なくして、ボランティアの氾濫が起きます。『ボランティアの人権を守る会?』が結成され拘束時間が短いゆっくりなグループと、被災者ファーストでストイックなグループとで進められていきます。

在宅被災者と共に作業をしている伊藤さん(奥)

【 話:一般社団法人チーム王冠 代表 伊藤 / 記事:吉田 】

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